▼「cartoonの世界」記事一覧▼
②アメリカン・アニメーション黄金時代と日本ゲーム全盛期の類似性
③かつてディズニーと比肩した悲劇のアニメーター、マックス・フライシャー
④ディズニーを駆逐し“カートゥーン”の本家となったワーナーとMGM
これまでざっくりとアメリカ・アニメーションの黄金時代について書いてきましたが、今回はそんなトーキーとカラー時代に覇権を握ったディズニーのライバルであったマックス・フライシャーという人物について紹介します。
マックス・フライシャーは、「ベティ・ブープ」の生みの親であり、「ポパイ」や初代「スーパーマン」のアニメーションを手がけ、アニメーターとしての活躍はディズニーよりも早く、その能力も負けず劣らずでした。
いち早く音楽と映像がシンクロしたトーキーを手がけ、曲に合わせて歌詞に上をボールが弾んで行く演出“バウンスボール“を考案するなどの功績をあげました。
しかし、マックスにはスポンサーとの関係という大きな大きな不運が付きまといました。
当時のアニメーションスタジオは基本的に大手映画会社の下請けとして短編作品を制作して、映画上映前にそれを流してもらうのが基本スタイルでした。そんな中マックスは親会社に長編アニメーションの制作を早くから打診していました。
しかし、数年にわたり断られ続けた結果、ディズニーの『白雪姫』に先を越されました。
その後、ディズニーの成功を受けて親会社からマックスに制作依頼が出たものの、それは『白雪姫』よりもはるか短期間で制作しろという要求でした。
厳しい条件ながらマックスはなんとか自身初の長編アニメーション『ガリバー旅行記』を完成させ、その後も『バッタ君町に行く』という作品を作り、当時ディズニー以外で唯一長編アニメーションを制作することにマックスは成功しました。
しかし、太平洋戦争直前の公開というタイミングや、会社の要求に応えるための借金、兄弟との軋轢などの理由でスタジオは数々の名作を作っていたにも関わらず倒産。マックスは同時にポパイやベティといった作品の版権も失うことになり、アニメーション界から姿を消すことになりました。
版権を失った結果、その後テレビでかつてのポパイなど作品が流れてもスタッフからマックスの名前が消されれるなどして、マックスは忘れられた存在になりました。
次回はそんなマックスが去り、ディズニーが長編を主体にしたあとに生まれたcartoonのスターたちを紹介します。
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